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前畑秀子の歩み
金メダルへの道のり
前畑秀子 橋本町に生まれる
前畑秀子は1914年(大正3年)5月20日、和歌山県伊都郡橋本町(現、橋本市)に生まれました。家業は豆腐屋で5人兄弟の2番目でした。
秀子は生まれたときから病気ばかりしていて体が弱かったようです。心配した両親は髪の毛を短く切って男の子のように育てたそうです。その甲斐あってか、秀子は元気に育っていきます。また、両親は秀子が3歳になると紀ノ川の「妻の浦」へ連れて行き、背中に乗せて泳ぎました。そして、いつの間にか、水泳を覚えた秀子は、毎年5月になると、ひとりでも「妻の浦」へ行って、泳ぐようになります。
両親、そして、紀ノ川が秀子を水泳へと誘ったのです。
橋本尋常高等小学校へ、「平泳ぎ」 との出会い
秀子は、小学校に入学しても、初夏を迎える頃になると、兄弟や友達と「妻の浦」へ泳ぎに行きました。
秀子が小学校4年生になると小学校に水泳部ができました。水泳が大好きな秀子も水泳部の選手に選ばれました。
当時、プールがある小学校などどこにもありません。熱心な先生方は紀ノ川に天然プールをつくることにしました。紀ノ川の流れの穏やかな湾に数本の杭を打ち込み、その上に板をはり、スタート台にします。そこから25メートル離れたところに、また、杭を打ち込み、それには板を壁のように打ち付け、ターニング台にしたのです。縄でコースロープをつくり、25メートル天然プールの完成です。
先生たちは大阪まで正式な泳ぎ方を習いに行き、クロールや背泳ぎ、平泳ぎなど、秀子たち選手に教えました。秀子は、その中でも、今までのかえる泳ぎとちがって、水しぶきを上げないで、すいすい進んでいく平泳ぎに驚きました。「さあ、みんな、自分の好きな泳ぎを一つ選びなさい」という西中武吉元校長の言葉に、秀子は文句なしに平泳ぎを選びました。このときから、ベルリンオリンピックでの金メダル獲得まで、秀子は平泳ぎ一筋の道を歩むのです。
次々と新記録を更新する秀子
5年生のとき、秀子は、大阪で開催された学童水泳大会で、50メートル平泳ぎの学童新記録を更新しました。熱心な先生方の指導と人一倍練習に打ち込んだ秀子の努力が着実に実っていったのです。
橋本尋常高等小学校高等科へ そして、世界へ
1927年(昭和2年)秀子が高等科1年生(中学1年生)になると、100m平泳ぎで1分38秒という学童新記録並びに日本女子新記録というとんでもない記録を出しました。1928年(昭和3年)秀子が高等科2年生のとき、オランダのアムステルダムで第9回オリンピック大会が開催されました。このオリンピックで織田幹雄選手が三段跳びで、鶴田義行選手が200メートル平泳ぎで、それぞれ、日本人として初めて金メダルを獲得しました。女子では人見絹枝選手が800メートル競走で銀メダルを獲得しました。15歳になった秀子もオリンピックでの日本人の活躍に心を踊らせたことでしょう。
この年に秀子は、100メートル平泳ぎで1分33秒2という記録を出し、自身が持っていた日本記録を大きく更新しています。
1929年(昭和4年)秀子が高等科3年生のとき、「汎太平洋女子オリンピック大会」という水泳大会が、カナダ、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアなど太平洋の周囲にある国々の女子選手が集まって、ハワイで開かれることになりました。秀子も選手に選考されました。この大会で、秀子は100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎで2位という素晴らしい結果を残しています。前畑秀子の名を世界に発信したのです。
秀子 名古屋市の「椙山高等女学校」へ
名古屋市内に椙山高等女学校という女学校がありました。現在の椙山女学園です。椙山正弌校長は日本の女子の体育教育を重要視し、日本で初めての室内プールを学園内に作りました。そして、そのプールでの初泳ぎを、汎太平洋女子オリンピック大会で活躍した前畑秀子に依頼したのです。
1929年9月15日、秀子は日本で初めての室内プールで初泳ぎをしました。初泳ぎの後、秀子は椙山校長から橋本尋常高等小学校高等科から椙山高等女学校への編入を勧められるのです。橋本尋常高等小学校の西中元校長たちの勧めもあり、その年の10月5日、秀子は椙山高等女学校に編入しました。秀子は生徒に優しく迎えられ、充実した学園生活を送ります。そして、記録の更新をめざして、放課後の水泳の練習に励み、さまざまな水泳大会で日本記録の更新を続けました。
突然の母の死、そして、父の死
1931年(昭和6年)1月14日 午後8時頃、椙山高等女学校・寄宿舎に秀子宛の電報が届きます。「ハハキトク スグ カエレ」と記されています。寄宿舎はたちまち大騒ぎになりました。椙山校長はすぐに確認の電報を打ちました。椙山校長の打った電報の返信として「ハハシンダ カエリマツ」という電報が届いたのです。秀子の母、光枝は48歳という若さで亡くなったのです。脳溢血でした。秀子の心を悲しみが覆いました。橋本町に帰った秀子を襲った次の大きな悲しみは父の死でした。母の死後、5ヶ月後の6月14日のことでした。秀子の父、福太郎は51歳という若さで、秀子の母の後を追うように亡くなったのです。脳溢血でした。
たった5ヶ月という短い間に両親を亡くしてしまった深い悲しみの中で、また、家業の豆腐屋を続けなければならないという現実の中で、秀子は、椙山高等女学校で水泳を続けることはできないと考えました。椙山校長に、涙を落としながら女学校をやめさせてほしいという手紙を書いたのです。
父母の死を乗り越えて
椙山校長や椙山高等女学校の生徒、西中校長や親類の人、秀子を知る多くの人は、秀子が椙山高等女学校へ戻って水泳を続けて欲しいと願いました。親類や先生たちの計らいで、秀子の兄、正一がお嫁さんをもらうことで、秀子は女学校へ戻れることになったのです。
しかし、半年以上も練習を休んでいた秀子の泳ぎは精彩を失っていました。お世話になった先生や家族、親類、応援してくれた友達、何より両親のことを思うと、じっとしていられません。死にものぐるいになって、もう一度がんばってみようと決心したのです。秀子は以前にも増してがんばりました。激しい練習を続けました。そして、泳ぎ続けることで秀子にようやく自信がよみがえってきたのです。
1932年(昭和7年)ロサンゼルスオリンピック選手選考会で、椙山女子専門学校に進学していた秀子は、200メートル平泳ぎで秀子自身が出した日本新記録とタイ記録の3分12秒4で1着になり、ロサンゼルスへと旅立つのです。秀子は18歳になっていました。
0.1秒差の銀メダル
ロサンゼルスオリンピック、8月9日、女子200メートル平泳ぎ決勝には8人の選手が出場しました。0.1秒差で秀子は2位でした。1位は、オーストラリアのデニス選手でした。そのとき、秀子は1着になれなかったというくやしさは、それほど感じなかったと言っています。全力を出して泳ぎ切ったということ、そうして3分12秒4という自分が持つ日本記録を6秒も縮められたということに、この上ない満足感と喜びを感じたと言っています。
ところが、意気揚々と帰って来た秀子に、当時の東京市の市長、永田秀次郎は「なぜもう10分の1秒縮めて金メダルを取ってくれなかったんかね。わたしはそれがくやしくてくやしくてたまらないんだよ。4年後のベルリンオリンピックでがんばってくれよ。日本の女子でメインポールに日の丸を揚げられるのはあなたしかいないんだ。」と言われます。名古屋市の椙山女子専門学校へも「10分の1秒差で負けたことがくやしくてなりません。ベルリンでがんばってください。」という、たくさんの手紙が届いていました。秀子は押しつぶされるような気持ちで橋本に帰って来ます。そこにも、手紙の山が届いていました。
秀子は、今まで好きな水泳を続けてきて、ロサンゼルスオリンピックに出場することもでき、これで十分ではないかと思っていました。また、これ以上水泳を続けることが許されるのだろうか、苦しい練習に耐えられるのかと悩みました。悩み続ける秀子に決心を促したのは、生前の母の言葉でした。「いったんやり始めたことは、どんな苦しいことがあっても最後までやり遂げなさい。」
秀子は、「ベルリンオリンピックをめざそう。」と決心します。椙山校長の好意もあり、椙山女子専門学校で練習に励むのでした。
ベルリンオリンピックをめざして
ベルリンオリンピックに出るからには、絶対に優勝しなければならないのです。そのためには今まで以上の厳しい練習を積み重ねるしかないのです。すさまじい重圧でした。秀子は1年365日、1日も休まず、朝5時に起き、練習に打ち込みました。そのころ、温水プールなどありません。寒い冬は陸上トレーニングを続けます。4月になるとプールに入ります。秀子は1日、朝・昼・夜と3回に分けて2万メートル泳ぐことを目標にした。25メートルプールを400回往復するのです。
厳しい練習の日々を送り、3年目になった昭和10年、ベルリンオリンピックの前年です。秀子は、東京で開催された水泳競技大会で、女子200メートル平泳ぎで3分3秒6という世界記録を出します。厳しい練習の結果でした。
ベルリンへ!そして、金メダルを!
1936年(昭和11年)第11回ベルリンオリンピックの年を迎えました。「いよいよ金メダルですね。」「世界記録を出したのだから金メダルまちがいなしですね。」そんな言葉が、秀子にとてつもない重圧をかけていきます。
ベルリンオリンピックでは、日本人が大活躍しています。陸上競技では、田島直人選手が三段跳びで優勝し、原田正夫選手が2位、田島直人選手は走り幅跳びでも3位になっています。棒高跳びでは2位になった西田修平選手と3位になった大江季雄選手が、お互いの健闘を讃え合い、銀メダルと銅メダルを半分ずつつなぎ合わせた友情のメダルを作っています。そのメダルは今も秩父宮記念スポーツ博物館と早稲田大学で大切に保存されています。マラソンでは孫基禎選手が優勝、南昇竜選手が3位になっています。
水泳競技では、男子100メートル自由形で遊佐正憲選手が2位、新井茂雄選手が3位、400メートル自由形でも、鵜藤俊平選手が2位、牧野正蔵選手が3位に、1500メートル自由形では寺田登選手が優勝し、鵜藤俊平選手も3位になっています。男子100メートル背泳ぎでは、清川正二選手が3位、男子200メートル平泳ぎでは、葉室鉄夫選手が優勝し、小池礼三選手が3位になっています。男子800メートルリレーでは日本チームが優勝しています。
秀子がうれしかったことは、椙山高等女学校で一緒に練習に励んできた橋本町出身の小島一枝選手が400メートル自由形で6位に入賞したことでした。
8月10日、女子200メートル平泳ぎ決勝の前日の夜、「早く寝ましょう。」とみんなに言われ、秀子はベットに入りますが、外国選手のタイムや泳ぎ方がちらついて、なかなか眠れなかったようです。寝付いても何度も目を覚まします。そして、決勝の日、8月11日の朝を迎えたのです。決勝が行われるのは午後3時40分、それまで、部屋で立ったり座ったり、部屋の中をうろうろと動き回ったり、冷たい水で顔を何度も洗ったりと、落ち着かない時間を過ごしたようです。すさまじい重圧に耐えながら過ごした長い時間だったのです。
いよいよ決勝のときが迫ってきます。秀子は多くの方からいただいたお守りにもお願いします。「どうか後押ししてください。」何を思ったのか、秀子はお守りの一つを持って洗面所に行き、お守りを丸め、水と一緒に飲み込みました。「これで神様はきっと助けてくださる。」という気持ちになったと、後になって綴っています。
ピーという笛の合図で、決勝のスタート台に7人の選手が立ちました。「お母さん秀子を助けてね。」と心の中で叫びました。号砲一発、7人の選手が飛び込みます。ただひたすら「お母さん助けてください。助けてください。」と心の中で叫びながら無我夢中で泳ぎました。
そのときの実況放送があのNHKアナウンサー河西三省の「前畑がんばれ!前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・・・あと4メートル、あと3メートル、あと2メートル、あっ、前畑リード。勝った!勝った!前畑が勝った!前畑が勝ちました!前畑の優勝です!」だったのです。
日本女子初めてのオリンピック金メダリストが誕生した瞬間でした。
2位はドイツのゲネンゲル選手でした。タイムは秀子が3分3秒6、ゲネンゲル選手は3分4秒2で、その差はわずか0.6秒でした。
優勝が決まったとき、ラジオでそれを知った兄の正一は、仏壇の父母に秀子の優勝を報告したそうです。そして、橋本の町は喜びで大騒ぎになり、多くの人が日の丸や提灯を持って町を練り歩いたそうです。
そのころ、表彰台に上がった秀子はメインポールに揚がった日の丸を見てぽろぽろと涙を流していました。